正確さだけでは伝わらない
情報や考えを伝えるには、正確さが要求されるのは言うまでもないことです。しかし、正確であることと分かりやすいということは必ずしも同じではありません。例えば論理学の教科書などで、数学者や論理学者が正確無比に書いた本は、案外分かりにくかったり、よく読めば分かるのだけれど、読者に負荷をかけるようなものだったりします。
興味深い話があります。形式論理的には同じ論証なのだけれど、その論証が扱う事例によってその論証の正誤を評価できるかどうかに差が出てくるというのです。正確な実験は忘れてしまいましたが、例えば、ある論証のパターンを医学的な事例と工学的な事例で示したところ、医者は医学的な事例には正確に判断できたけれど、工学的な事例では成績が落ちたというのです。逆に、エンジニアは工学的な事例では正しく答えられたけれど、医学的な事例では成績が落ちた。事例は異なるけれども、どちらも形式論理的には同じ論証なのです。つまり、人は純粋に論理の形式を取り出して評価するのではなく、その具体的な内容に左右されてしまうのです。これは「論理の領域固有性」のように呼ばれる現象です。人は慣れ親しんだ領域でこそ、論理的な力も発揮できるというわけです。
ですから、相手が慣れ親しんでいない領域の話題を分かりやすく伝えるためには、たんに正確に述べるだけではだめなのです。いわば「準備運動」が必要です。相手がまだ慣れていないところへと導いていこうとするわけですから、相手の慣れている領域と橋渡しをしたり、慣れていない話題に関する具体例をいくつか示して、「体慣らし」ならぬ「頭慣らし」が必要です。私は立正大学の論理学の教科書として『まったくゼロからの論理学』という本を出版しましたが、そこでは前半は記号を使わず、日本語だけで論理学の推論をいろいろ扱いました。そして、1学期かけて頭慣らしをしてから、後半に記号論理学へと向かったのです。
相手の顔が見えないところで分かりやすく論理的に伝えようとしたら、誰にでも分かる言葉、読者に負荷をかけないシンプルな文章で語ることが必要となります。そのためにはプレインランゲージはきわめて重要なツールとなります。それはまちがいありません。しかし、相手が特定できるところでは、その相手のことを考えて言葉を選ぶことが重要です。こんなに正確に、分かりやすい言葉で伝えているのに、うまく伝わらないなどということがあるとしたら(おそらく、あるでしょうね)、それはまだ相手のことをあなたが十分に分かっていないからかもしれません。
