「プレインランゲージ」はヒトだからできること

AIということばが世に広く出回り始めたころ、語学教師や通訳・翻訳業は真っ先にこの世から消滅する仕事だと言われていました。当時私は、まさにその語学教師である日本語教師になるべく、大学で学んでおりました。いくら消える、なくなると言われても、先生方も周囲の学生も自分も、一向に動じずにいたのを覚えております。

それもそのはず!外国語大学でしたので、主専攻の日本語の他に、それぞれの専攻語(外国語)も並行して学習しなければなりませんでした。どの言語でも言えることだと思いますが、教科書で一通りの文法を学習しても、実際の運用場面では例外の多いことこの上ございません。文法的にすっぱり分類できるもののほうが少ないのでは?と思えます。例えば、日本語の「れる・られる」は、「足を踏まれた」のような【受身】、「一人で着替えられる」のような【可能】、「故郷が思い出される」のような【自発】、そして「先輩が来られた」のような【尊敬】、この4つの用法があるとされています。では、「この疾患によく見られる症状」の「見られる」は何でしょう?【尊敬】ではないのでしょうが、【受身】のようで【可能】のような【自発】であるような気も…。こんな分類しきれないことばを、自分が教師として学習者にどう伝えればいいのか。言語の奥深さに対して途方に暮れるしかありませんでした。その一方で、AIが人間の知見のインプットを受けて初めて作動するものである以上、ことばを生業とする職業が消えるはずがないと肌で感じる日々でした。

確かに、自動通訳・翻訳の技術が著しく向上している現在、直訳だけを提供する訳者や語学教師は必要がなくなっていると思います。現代社会では、ことばの受け取り手が非常に多様化しています。発信する側は、それぞれの相手のニーズを的確にくみ取り、ことばを構築していかねばなりません。「プレインランゲージ」がまさにその1つです。少なくとも目下、これは生身の人間にしかできない作業だと思います。

それにしても、なぜ人はAIにこんなにも恐れおののくのでしょうか。AIによって消滅すると言われている業種は言語に関するものだけにとどまりません。少なくともそのことばに関しては、ほんの少し中を覗いてみれば、何よりも人間こそが主たる使い手であることが認識できます。私は一応ことばを仕事にしている者として、本当に微力ながらことばの面白さをお伝えすることで、誰もが積極的に言語に触れていただけるようなお手伝いがしたいと思っております。

五十嵐小優粒
(中部学院大学 留学生別科 専任講師)